昭和五十四年十一月二十四日 朝の御理解
御理解第六十節 「おかげは受け徳、受け勝ち。」
どんなにおかげを受け徳受け勝ちと前に並べてあっても、それを頂いて帰れる力というものがなからなければ頂けません、ね。氏子が信心して徳を受け力を受けて、ね、持てるだけ持って行ってくれ、と言うのが神様の願いなんです。もうそのくらいでやめとけと言う事はない。もう持てるだけは持たして下さる。力を頂かなければなりません。いよいよ末永先生の南米布教の、本当の宗教家としての途につきます。
いよいよ明日に迫ったわけですけれども、もうそれこそ持てない程しの沢山の荷物を今度は、もう本当にお話を聞いただけでも勿体ないね、というように沢山頂きました。ね。だからもっとあれを下さるとしてもです。ならそれを、まあだ持つ力がなからなければ、結局あれだけである。ね。
今日私今度の、今日、合楽だよりの記事にする為に、私と末永先生の対談を言われております。昨日、ある筈だったけれども出来ませんでしたが、その事をお願いさして頂きましたら、横綱に輪島というのがおりますね。『「輪島が土俵入りをしている」と頂きました。それこそ、あれは何でしたかね、一本刀土俵入りじゃないですけれどもね。も、素晴らしい、いうならば合楽南米の花道を通るようなものです。』
昨日お月次祭のあとの教話を先生が代ってやってくれました。また自分もいろいろ皆さんに御挨拶代りのお説教でしたけども、本当に二年間の、普通は二年間の苦労というところでしょうけども、苦労どこじゃない。それこそ[開けてみれば愛]というのじゃなくてから、も、[開けてみんでも愛]なんだから、二年間をひとっつも、これは私自身ですけれども、あゝいつ迄経ったなら行かれんごとなるか知れん、と、そんな思いをした事がありませんでした。本人もやっぱり、そうだったと思うです。
そういうようなものが只、兎に角一日でも一月でも、こちらに居る間は、合楽の信心を、それこそがめつう吸収しょうという事ばっかりでございましたから、ね。そんな思いを致しませんでしたが、本当にそれこそ、どこを切っても有難い、というものが出てくるような働きの中の二年間でした。
『今日その事を、お願いやら御礼やら申さして頂いとりましたら、今の輪島の土俵入り。輪島という人は太鼓腹が、他の方達よりも小さいけれども、今日、私が頂いたのは、もう物凄い太鼓腹なんです。もう見事な、いうなら相撲取りの格好と言うか、それが、輪島という事は、ね。平和な和、和賀心の和、しは志、まに真、という事であろう、と。これは末永先生が、いうなら南米での土俵入りの姿だと、こう思いますけども、んなら現在それだけの大きな太っ腹が出来ておるとは思われません。』
ですから、もう問題はね。大きゅうなれ大きゅうなれよ、と、しかも昨日先生の話の中にもありましたように、もう、いつもそれこそ懐妊のおかげを頂いておる、ね。それは産みなす為のものであって、おかげを頂いて、それこそ一分一厘間違いのない働きが、このようにして成就した、と言うても、それは南米に宗教家として渡れたというだけのこと。
あちらに大変な幸が待ってるということでも何でもない。それこそ、ま、布教の、いうならば人が助かる事の為の厳しい修行だけがあちらで待ってるだけなんです。ね。それを神様が、ここ迄間違いのない働きを下さる、という事は、いうなら合楽にかけられる、又は末永にかけられる神様の願いが、ね。南米に渡れた、という、そのおかげの一事をもってしてもです、ね。大変な神の願いというものを感ぜずにはおられません。
これからも問題は、それこそ問題は沢山あるでしょう。も現に、その問題は起きとります。あちらでの問題が、ね。けれども、それをなら自分の小さい知恵、才覚とかをもって右にしょう左にしょうというような人情教に終わってはなりませんのですから、どこまでも、それを神情で受けていく、という事の為にはこちらが、腹が大きうならなければ出来ません、ね。
如何に和志真ですね。和志真でやりましてもです、ね。その限りないおかげに繋がる事の為にも、限りなく大きくなっていかなきゃなりません。いよいよ豊かになっていかなきゃいけません、ね。輪島という事は「力」という事でございましょうけれども、ね。力を受けていく、という事が、ね。大きな、いうならおかげが大きな太っ腹の中から生まれてくるんだ、と。
もう先生が場合は、一寸昨日話した事でしたけれども、[開けてみれば愛]というのではなくて、もう開けてみれば愛という事がわかっておるのだから、ね。それを「愛」として、どういう事柄であろうが問題であろうが、ね。もう十二年間の体験と同時煮、今度の二年間というものは、そこんところを、も、水も漏らさん程しに神様の方がです。綿密にこんなにも間違いのない事だ、という事を見せて下さった。
渡米のおかげが頂かれる。南米に渡られる、という事だけでも、そういう神様の働きの中に、一段一段信心を進めていった、という事です、ね。おかげは受け徳受け勝ち、ね。小さい事が心配になる、不安になる、腹が立つ。それは腹が小さい証拠ですから、これではこの位のおかげしか頂かれんな、という事なんです。いうなら心に泳がせると、いうような事を申しますがね。
あゝおかげじゃが、と、ま、どんな場合であっても、それをおかげおかげで真実開けて見んでも愛という、その信心を頂いていきながら、いよいよ大きな腹になっていかなければならない。私はそういう、お腹が大きうなった、ね。太っ腹な、いうなら末永先生がです、ね。見事な南米での土俵入りの事を思うただけで胸が熱くなるような思いがします。
またこれなら出来る、と神様が白羽の矢を立てて下さってあるからこそ、間違いのない神様の働きを見しても下さる、おかげも下さるわけです。それでやれやれおかげ頂いた、という事ではありません。これからなんです、先生が場合は、ね。あちらに渡れたというだけの事なんですから、ね。
私が先日お知らせ頂きましたように、ね。それこそ神様の限りない、ね、働き、が、いうなら神業が開けてくる。しかも開けに開けてくる、と。新米開業という字から申しますと、そうなります。神様の働きは限りなく広がりに広がっていく、いわゆる神業(かむわざ)が神業たらしめる為に、ね。人間の業ではとても出来ない働きが南米の地に起こってくるだろう。
ためには人間の考えで思うたり行のうたりする事を、いわば超越した、ね。おかげを頂く為に、いうならば大きな腹を、いよいよ作っていかなければならん、という事になります。そこから神様は限りない神業を示して下さることだろう、ね。容易な事ではありますまい、ね。けれどもそういう神様の願いが南米の地に成就していく、も、そこにはおかげは受け徳受け勝ちである、ね。
そういう、ま、おかげを願わしてもらい、ね、期待さして頂いて、今後の末永先生が信心を見守っていきたい、というふうに思います、ね。如何に和の心であり、ね。そういう和の心を、ね、真であり和であってもです。それが小さかったら小さいやっぱりおかげなんです、ね。ですから、これをいよいよ豊かに大きくしていく為には、ジィッとして大きくなるとは思われません。
栄養になるものを沢山食べたり頂いたりして、ね。そこには、いうならば苦い食物もありましょう、ね。臭い食物もありましょうけれども、ね。それをあれこれと言わずに一切を、いうなら、も、神愛として受けて頂くところに限りない、いうならおかげの受け物は大きくなっていく。それはそのまま腹が大きくなっていく。
皆さんが、あの輪島のお腹の、実際はもっと大きな輪島がです。あの土俵入り、土俵一杯に土俵入りのしておる姿を思うて見て下さい。本当に宗教家としての、いうならば使命をです。南米の地に現わして行こうとする、これからの末永先生の信心をです。もう問題は、ね、あんたが大きうなる以外なかばい、という以外ないのです、ね。
そこに神様の、いうなら広がりに広がっていく神業である。神米、御神米の御という字を取った神米。開業というのは商売を始めるという開業、ね。開かしてもらう。そこには、ね。神様の限りない、神業、ね。しかも、あの《米》という字を分解してみますと八十八とありますから限りない繁盛、ね。
本当に南米全土にわたる、いうなら合楽の、いうなら理念の実験実証者が増えていくおかげを頂かなきゃならん。そういうおかげを頂きたい、と願って、いうなら受け物が小さかっては大きなおかげを願うと言うてもです。それは難しい事である。おかげは受け徳である、受け勝ちである。ね。こちらの大きな受け物次第である、と、いう事になります。力次第という事になります。どうぞ